先の東京都知事選における大敗北から何も学んでいないみたいですね。

国民の人権を踏みにじり生命と財産を脅かす、国家と国民の敵、独裁主義と恐怖政治指向のファシスト集団である共産党なんぞに、なおも擦り寄るとは──。もはや立憲民主党は、単に政権を倒すことだけが目的と化し、敵の敵は味方とばかりの浅い考えだけで、目先の都合だけでどんな悪党とも手を組む、愚かな集団となりました。

次期衆院選において、いよいよ野党第一党は立民党以外の党になることでしょう。

党委員長選などが行われず中央幹部がどう決められているのかさっぱり分からない共産党が、他党の総裁選にあれこれ口を出すって、はたから見ているとみっともないだけですけれどもね。

それにつけても、志位がそんなふうにビシッと言ってくれるとなかなか「刷新感」があっていいですね。

国民の人権を踏みにじり生命と財産を脅かす、国家と国民の敵、独裁主義と恐怖政治指向のファシスト集団めが。さっさと消滅しろ。

小泉進次郎氏は、いわゆる「小泉構文」をいじられたりしていますが、〈顔〉としては悪くないと思いますよ。外遊にあの夫人が同行したら見栄えもいいですし。

私は昨日まで小泉氏では力不足なのではと思っていたのですが、しかし周りの主要閣僚を有能な人材で固めればかなりやれるだろうと思うようになりました。現時点で自民党総裁選に手を挙げている人たちのうち、石破氏、河野氏、茂木氏を除く面々をうまくきっちり配置すればいいでしょう。

えっと、その3人を除くのはなぜかって、それは言わずもがなというやつ(笑)

自民党総裁選によるメリットは、自民党内の有意義な政策論争が、難癖にすぎない駄目野党の雑音を抜きにして、国民に公開されるという点です。

というわけで、自民党総裁選のメディアジャックによって立憲民主党代表選はほとんど話題にならないありさま(立民党代表選の時期をずらせばいいのにねぇ)の今日このごろですが、そんな中、ネットで俄然注目を浴びている(?)のが、国民の人権を踏みにじり生命と財産を脅かす、国家と国民の敵、独裁主義と恐怖政治指向のファシスト集団である共産党です。

なんでも福岡のほうでもめているようです。労働者階級の党とか抜かしているくせに、内部で労働問題が起きているという、しょうもないことに(笑)

上層部に盾突くとパワハラされたりさらにはサクッと除名されたりすることでおなじみの共産党ですが、今回は除籍・解雇という事態ですね。

このたび初めて知ったのですが、共産党の職員は基本的に〈党に賛同する人民によるボランティア勤務〉という位置づけのため、労基法上の労働者としてみなされない、という身も震えるような屁理屈があの党ではまかり通っているらしいですね。だから、民間企業なら明らかにパワハラや不当解雇になるようなことも平気でやってしまうようです。

つくづく、国でも地方でも、こんな党に議席を与えたらいけませんね。

NHK大河ドラマ「光る君へ」は、昨夜の第31回「月の下で」において新たなステージに移りました。まひろ(紫式部)がついに、のちに『源氏物語』と呼ばれることになる物語を起筆したのです。好きな短編を書いて仲間内だけで楽しんでいた同人作家が、当時とても高価だった紙(今の価値でいうと1枚が1、2万円とか)を大量に用意してくれるスポンサーを得て、執筆依頼に基づき確かな目的を持って長編小説を書く職業作家へと生まれ変わりました。

序盤でまず出てきた、あかね(和泉式部)による『枕草子』評が良かったと私は思います。「艶かしさがないのよ。『枕草子』は気が利いてはいるけれど、人肌の温もりがないでしょ。だから胸に食い込んでこないのよ。巧みだなぁと思うだけで」─。よく言われるように『枕草子』は「をかし」の文学であり、ウィットに富んだおしゃれなエッセイ集として大当たりした作品ですから、情念というものからは対極にあります。ですから、あかねの評は的確といえます。

ついでながら、その時にあかねが披露した和歌も有名なものですね。

黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき
[和泉式部]

『枕草子』には艶かしさがないと評したあとに、この艶かしい歌を持ってくるという脚本、実に見事です。

あかねとのやりとりののち、まひろは清少納言とのやりとりを回想します。『枕草子』は皇后定子との華やかな思い出を清少納言がしたためたものであり、陰の部分は全く出てきません。何せあれは、定子が亡くなる直前の心温まるエピソードまでしっかり書いていながら、定子の死そのものについては一行も書いておらず、徹底して定子の光の部分だけを書き連ねた書物です。それに対して、まひろは『枕草子』には陰がないという違和感をどこかに抱き続けてきました。あかねの「人肌の温もりがない」という言葉が、そこで何かの化学反応を起こしたようです。

そのあと藤原道長から一条天皇とその周辺の人々の「生身のおすがた」を聞き取ったまひろは、人とは何かということを考え詰めてゆくことになります。そうしてついに、まさしく物語が〈降ってくる〉様子が視覚的な演出で描写されました。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
[『源氏物語』]

こうして始まる『源氏物語』冒頭箇所は、高校時代の古文で暗記させられたものですけれども、今こうして「光る君へ」の文脈の中で改めて読み返してみますと、確かに一条天皇の心をえぐる一節、あかねの言葉でいえば「胸に食い込んで」くる一節でしょう。定子のきらびやかな思い出だけがあふれる『枕草子』とは違って、内裏のドロドロした人間模様を書き付けたような『源氏物語』は、フィクションでありながらもエッセイより生々しく現実を描いた作品として一条天皇に迫りくるものだった、という筋書きは、史実がどうかはともかく、ドラマとしてよく出来ていると思います。私は今までこういう形で『源氏物語』の意味をとらえたことがなかったので、なるほどそうくるかと感心しました。

さて、美しい夢ばかり見ていたいのが人というもので、そこに現実をまざまざと見せられてもにわかには受け容れられないものです。恐らく次回は、一条天皇がまひろの書いた物語を疎むところから始まるのではないかと。