私が大学の卒論のテーマにした『ライ麦畑でつかまえて』について、作品そのもののことを語り始めると止まらなくなるので、今までやらないようにしてきましたが、作品の周辺の話などをたまには少し。

『ライ麦畑でつかまえて』はアメリカの作家、サリンジャー (J. D. Salinger, 1919-2010) が1951年に発表した小説。原題は The Catcher in the Rye で、作品の内容に沿ってそれを訳すと「ライ麦畑のつかまえびと」といった感じですね。『ライ麦畑でつかまえて』という邦題は、邦訳の中で最も普及し現在に至っている野崎孝訳によるものです。

この邦題はとても見事な訳出なのですが、ただ、1つだけ問題のようなものがあるのです。というのも、邦題だけを聞くと、何となく恋愛小説のような感じがしてしまいませんか?

「ライ麦畑でつかまえて」──広大なライ麦畑が広がる中で、農村の若い男女が追いかけっこをしてじゃれていて、男が「ほら、つかまえたぞ、ハニー!」と笑いながら女を抱きしめる、なんていう場面を想像するのではないでしょうか。

──残念ながらこの小説の中にそんな美しい場面はありません。一つもありません。だいたい、物語の舞台はほぼニューヨークでして、ライ麦畑もトウモロコシ畑も出てきません。

ではなぜ題名に「ライ麦畑」が出てくるのかというと、作品の核心部分のモチーフとして引き合いに出されるのが、ロバート・バーンズの詩によるスコットランド民謡「ライ麦畑を抜けて」 (Comin' Thro The Rye) の歌詞の一部で、それをもじったものなのです。と言われても分からないかもしれませんが、 “Comin' Thro The Rye” は日本では唱歌「故郷の空」として知られている歌です。

唱歌「故郷の空」

「夕空晴れて秋風吹き‥‥」という歌詞に郷愁を覚える人も多いでしょう。故郷を思う気持ちは日本人もスコットランド人も同じなのですね。

──と思ってしまうかもしれませんが、残念ながら実はスコットランドの原詩はこんなきれいなものではありません(笑)

日本ではこの同じメロディに別の歌詞を付けたものもありますよね。ほら、あれですよ、あれ。実はあれのほうが、スコットランドの原詩の持つ雰囲気を伝えており、特に1番はかなり原詩に近い感じになっています。

というわけで、あれ──

ザ・ドリフターズ「誰かさんと誰かさん」

そしてここで、スコットランド民謡のほうを──

スコットランド民謡 “Comin' Thro The Rye”

長いので1番だけ抜き出してみます:

Gin a body meet a body
Comin thro' the rye,
Gin a body kiss a body,
Need a body cry?

Ilka lassie has her laddie,
Nane, they say, ha'e I
Yet all the lads they smile on me,
When comin' thro' the rye.

誰かと誰かが
ライ麦畑を抜けて逢うなら、
誰かが誰かにキスしたぐらいで、
誰かが泣くっていうの?

どの女にも男がいて、
あたしには男がいないって言われるけど、
男たちはみんなあたしに微笑むのよ、
ライ麦畑を抜けて来てさ。

ほらね、「夕空晴れて秋風吹き‥‥」より「誰かさんと誰かさんが麦畑‥‥」のほうが原詩に近いのです。ロマンチックな恋歌というより、開けっ広げです。ええ、誘っていますね、これは。

と言われても分からない人が多いかもしれません。えげつない内容ながらも婉曲的ですからね。麦は生長すると背が高くなり、ライ麦はそれこそ人の背を超えますので、その中に隠れて男と女が何をしていてもはたからは見えないというわけでして。二人で何してるのか知らないけど、別にあたしはどうでもいいもん、というすねた歌です。

ただ、これでもまだ本来の歌詞とはちょっと違うのです。というか、大っぴらに歌っても子供に聞かれて差し支えない程度の内容に、編集してあるのですよね。

本来のバージョンは──

スコットランド民謡 “Comin' Thro The Rye”

最初の部分を抜き出してみますと:

Comin thro' the rye, poor body,
Comin thro' the rye,
She draigl't a' her petticoatie,
Comin thro' the rye!

O, Jenny's a' weet, poor body,
Jenny's seldom dry:
She draigl't a' her petticoatie,
Comin thro' the rye!

ライ麦畑を抜けて、かわいそうな女が、
ライ麦畑を抜けてやって来る、
ペティコートを引きずって、
ライ麦畑を抜けてやって来る。

ジェニーはずぶ濡れ、かわいそうな女、
ジェニーは乾く暇もありゃしないわ。
ペティコートを引きずって、
ライ麦畑を抜けてやって来る。

──下ネタやないかーい。

ところで唐突に話を戻しますが、『ライ麦畑でつかまえて』に出てくるのは、この歌の歌詞の中のたった一部です:

If a body meet a body coming through the rye

これだけ。そして、物語そのものはライ麦畑もスコットランドも関係ありません。

※スコットランド方言の “gin” は、英語の “if” に当たります。