「憲法9条を保持する日本国民」がノーベル平和賞候補にノミネートされたなどということを、築地や一ツ橋や内幸町の新聞が昨年も今年もいちいち書き立てているが、こんなのは入学願書みたいなもので、書類に不備がなければ誰でも事務的に受け付けられノミニーになれるのである。ノミネートされただけでも偉業であるかのように喧伝している人たちは、自らの愚かさと浅はかさを自覚し恥ずべきであることを、まず最初に言っておく。

また、同賞の「有力候補」というのは、ノルウェー・ノーベル委員会が発表しているものではなく、早い話、予想屋がテキトーなことを言っているだけであり、過去の例からみてそうそう当たるものではない。ちなみに、今回受賞したチュニジアの団体は、上記記事における予想に含まれていない。

同賞に関して、割と有名な学者の昨年の発言を見てみよう:

これを見て「みっともない」「恥ずかしくないのか」「こいつは馬鹿か」などと思った人は多いだろう。しかし、もしあなたが「憲法9条にノーベル平和賞を」運動に賛同し署名したのであれば、あなたも同類である。自らの愚かさと浅はかさを自覚し恥ずべきであることを、重ねて言っておく。

さて、この機に、なぜ「憲法9条にノーベル平和賞を」運動が駄目なのか、改めてまとめて述べておきたい。本当はこんなことをダラダラと書くのも嫌なのだけれど、いつまでたっても目の覚めない馬鹿が多いから、やはりきちんと言っておかねばなるまい。

おこがましい

署名簿に名前と住所を書き、Facebookで「いいね」を押しただけのくせに、パキスタンで女子教育の必要性を訴えてタリバンの凶弾に遭った少女や、チュニジアの民主化に尽力した団体などと同じ土俵に上がろうとは、そもそも発想がおこがましい。

世界平和の実現に寄与することなどあなたは何一つしていない、ということを私は自信をもって断言する。

まるで乞食

基本的に、ノーベル平和賞を受賞すること自体に文句はない。くれるのであればありがたく受け取っておけばよい。9条がどうのこうのと言ったって実際はアメリカさんに守ってもらっているだけではないかとか、いささか複雑な思いはあるけれども、くれるのならもらっておけばよい。

しかし、自分で自分にノーベル平和賞をくれという署名運動を起こしたなどという話は、古今東西これ以外に聞いたことがない。みっともないったらありゃしない。まるで乞食である。やっている当人たちだけがみっともないということで済むならどうでもいいが、世界から「日本人が何か変なことやってるよ」と笑いものにされてはたまらない。このような国辱的運動の推進を看過するわけにはいかない。

「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」[憲法前文]というのは、乞食みたいな真似をしてノーベル平和賞を恵んでもらうことなのか。よくよく考え直してもらいたい。

カツドーカの工作

「憲法9条にノーベル平和賞を」運動は、神奈川県在住の普通の主婦の思いつきから始まった、という触れ込みになっている。しかし、その自称「普通の主婦」の名前をネットで検索すると、なかなかおもしろいことが分かる。「西早稲田2-3-18」という文字列と複合検索すると、なおおもしろい。

要するに、自称「普通の主婦」はカツドーカなのだ。玉石混淆のネットにおいて、彼女に関する情報のほとんどは“石”なのであるが、かつてはリンクをたどれば明確な情報源に行き着いた(今は彼女にとって都合の悪いウェブページは削除されてしまっているので、リンク切れになっているが)。

「憲法9条にノーベル平和賞を」運動に賛同し署名したあなたは、単にカツドーカの工作に引っかかっただけである。自らの愚かさと浅はかさを自覚し恥じなければならない。

ノーベル平和賞の政治力を期待する愚

9条がノーベル平和賞を受賞すれば、政府は改憲できなくなるはずだ、などと言う人がいる。

馬鹿である。ただの馬鹿である。何度でも言う。馬鹿である。

憲法改正の手続きは憲法第96条に明記されている:

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

[憲法第96条]

憲法の改正または保持は、主権者たるわれわれ国民が、代表者たる国会議員を通じて行うのである。北欧の機関の数人の委員が決めるのではない。これが分からない人は、中学の公民から勉強し直さなければならない。つまり、分かっていない人は義務教育修了程度の一般教養すらないということである。

ついでながら、ノーベル平和賞に護憲効力があると言っている人たちに、逆に問いたい。もし安倍首相がその「積極的平和主義」を同委員会から高く評価されて受賞したとしたら、あなたたちは9条を改正すべきだと考えるのか。今「憲法9条にノーベル平和賞を」に賛同している人たちの全員が全員、手のひらを返して同賞を罵倒し始めるであろうことは、目に見えて明らかといえよう。

何ごとも自分に都合良くしか考えられない自分の脳の機能不全を、一度くらい見直してみたらどうか。

ノーベル平和賞のメッセージ性を期待する愚

受賞まで行かなくとも、ノミネートされただけでも話題性はあり、9条の理念が世界に広まり、共感する人が増えて世界平和の実現が近くなる、などと言う人がいる。

良くも悪くも、平和ボケしているとしか言いようがない。

9条のことを知った外国人の、恐らく100人中90人までは「軍隊を持たないって、ちょっと意味分かんないんだけど」「攻められたらどうやって守るの?」という反応を見せるだろう。それが世界の常識的な感覚というものである。

もちろん、世界の常識だから絶対に正しいと言うつもりはないが、良くも悪くもそれが世界の常識であり、良くも悪くも9条は世界の非常識なのだ。常識に反することがそう簡単に理解され共感されることを期待するのは、愚かで浅はかである。そんな妄想がやすやすと実現するなら、2千年ぐらい前に世界からとっくに戦争がなくなっているはずだ。

残りの10人のうち9人ぐらいは「日本にはすばらしい憲法があるね」と言ってくれるかもしれない。でも、あしたにはもう忘れている。世界の人々はそんなに暇ではない。

残る最後の1人だけは、9条の崇高な理念に感動して涙を流すかもしれない。だが、自分の国も9条を持つべきだと大っぴらに主張することはまずない。なぜなら、世界の非常識だからだ。

あらかじめ言っておく。「たとえ世界に一人でも9条に共感する人が増えれば意味がある」などというポエムを聞く気など、私はさらさらない。