バンコクに到着した10日の夕方、私はある所へ向かっていた。中華街ヤワラーにある「7月22日ロータリー」という名のロータリーである。

私が学生時代に初めてバンコクに来た時に泊まった安宿が、かつてそのロータリーに面してあった。飛行機の乗り継ぎの都合で急遽バンコクに1泊することがその前日に決まったため、香港の宿に泊まり合わせていたバックパッカーに訊いてその宿のことを知ったのだった。ホアランポーン駅から歩いてすぐのその宿は、初めての私でもすぐに分かった。もっとも、ドンムアン空港からホアランポーン駅までのバスを乗り間違えたりしてそれまでが大変だったが。

あの宿があったあのロータリーが今はどうなっているか、見てみたかった。ついでに、中華街だから夕食はフカヒレでも堪能するか、などと考えつつ。

今やバンコクも変に便利になったものである。シーロムからMRT(地下鉄)に乗ってホアランポーンまで2駅だ。窓を取っ払ったオンボロのバスで排ガスまみれになってラマ4世通りをタラタラと行ったのはもう過去の話である。

MRTのホアランポーン駅から「7月22日ロータリー」を目指す。道は至って簡単だ。ずっとまっすぐ行けばいい。

ところが、程なくして私は異変に気づいた。行けども行けどもロータリーに着かないのである。もはや汗だくになっていた。駅からすぐだったはずなのに。とっくに着いていてもおかしくないのに。まさか、道を一本間違えたのだろうか。

便利な時代になったものである。地図を広げてその辺の人をつかまえ、言葉が通じないのに無理やり現在地を訊いたりしたのは、過去の話だ。今はiPhoneで地図を見ればいい。

現在地を確認した私は、愕然とした。私の歩いてきた道は間違っていなかった。ただ、私は、駅からロータリーまでの道のりの半分すらまだ歩いていなかった。

──そんなに遠いわけがない。駅から歩いてすぐだったはずなのに。

学生の頃、バックパックを背負って平然と歩いていった“駅からすぐ”のロータリーに面した宿。今私は、背中に何もなく手ぶらで軽々と歩いているのに、その道のりの半分も行かないうちに、汗だくになってばてている。

これが年齢というやつか。思えば、私はあの時の倍以上の歳になっているわけだし。

旅には年齢相応のスタイルがあるのだという当たり前のことを、こんな形で実感させられた。貧乏旅行というのは若者の特権だ。

ようやくのことでたどり着いた「7月22日ロータリー」─。そこにはもはや昔の面影らしきものは残っていなかった。ただ、私の知らないロータリーがあって、車がぐるぐると回っていた。