熊谷直実(1141-1207。出家して蓮生と称する。画は『一の谷合戦図屏風』より)

歴史的な戦続きの時代に武人として名を上げながら、のちにはお念仏に帰依した人というのがいる。修羅の道を血まみれになって突き進んだ者が、やがて御仏の道を歩んだというのは、一般には理解しがたく思えるかもしれないが、しかし殺戮の世を生きたからこそ深く思うところもあるというものであろう。己の掲げていた正義のむなしさと己の愚かさを知ったのかもしれない。

天下に激しい戦の嵐が巻き起こり始めていた頃、東国に生まれた彼は若くから武人として頭角を現していたが、一方で実に愛妻家という側面もあり、妻は彼を心から信頼し彼に一生尽くそうと心に決めたという。また、彼は武官の地位にありながら下っ端の兵ひとりひとりと直接会って話を聞き、彼らの家族のことを慮ってくれたりしたので、兵思いで人情の篤い武官として多くの者たちから慕われていたという。やがて戦で暴れ回るようになったが、鬼のように猛々しいだけの武者ではなかったということのようである。

彼の辞世として4首が伝えられているが、それらに先立ち、死の前日にお念仏の信仰を3首の歌に詠んでいる:

  • さらばなり有為の奥山今日越えて弥陀のみもとに行くぞ嬉しき
  • 明日よりは誰にはばかるところなく弥陀のみもとでのびのびと寝ん
  • 日も月も蛍の光さながらにゆく手に弥陀の光輝く

かくして如来の信心を賜ったその武人は、巣鴨拘置所で絞首刑に処せられて波乱の生涯を63歳で閉じることとなった。時に1948年(昭和23年)12月23日のことである。彼の名は、そう、東條英機という。

東條英機(1884-1948)

ここまで読んできた浄土真宗同朋諸氏の中には、「あろうことか極悪戦争犯罪人である東條英機を、まるで法然上人の弟子である蓮生こと熊谷直実のごとく描写するとは、不適切にも程がある」と私に怒る人がいるかもしれない。いないと信じたいものだが、恐らくいるだろう。実際それに似た話は聞いたことがあるので。いるのであれば、私からははっきりこう言い返させてもらう:「あなたは今までお寺で何を聞いてきたのか。長年聞法してきて、まさか自分は東條英機とは違う善人だと思っているのか」─。

だいたい、世間の反戦カツドーカやら世界平和を願う心美しい人々やらというのは、底が浅いのが多すぎるのだ。例えば、旧日本軍の戦闘ぶりを描いた映画は、戦争を美化する軍国主義で右翼趣味の作品だなどと蛇蝎のごとく嫌うくせに、一方で戦国時代ものの映画やドラマは大好きだったりもするだろう。まさに東條英機と熊谷直実へのまなざしが異なるのと根は同じである。だいたい彼らは、映画『二百三高地』の主題歌を歌ったからさだまさしは右翼だ、などと昭和の昔から意味不明なことばかりほざいている(若い人には信じられないかもしれないが誇張なしの本当の話だ)というありさまで、おかしなところで思考停止しているとしか思えない。

曲がりなりにも少しでも真宗の教えに聞いてきている人なら、せめてそんな浅い底を突き破るくらいのことはあってほしいものよと僭越ながら思うのだが、それすら叶わない残念な同朋もいるのが娑婆というものか。それにしても、熊谷直実と東條英機の信心は違うと言い張る人がいるなら、その人は自分は一体どんな信心の持ち主のつもりなのだろうか。