先日触れた「呪殺祈祷僧団四十七士」とやらについて、ニュース記事が出ていた。

よくもまあ抜け抜けと、という感想しか持てない。常々言っているように、カツドーカとはすなわち嘘つきである。

しかし、J-CASTニュースの取材に応じた同団体の中心僧侶の1人によれば、

「呪殺とは、殺人ではありません。神仏や死者の裁きを祈念し、他者や我々自身の煩悩を滅殺することを指します。‥‥」

[同]

「ポアとは殺人ではなく、罪深い魂の救済である」みたいな話だと感じるのは私だけではあるまい。「のろいころす」という言葉の意味くらいは小学生でも分かる。

同氏はあわせて、

「『呪』という字は『祈る』という意味で使っています」

とも語った。

[同]

確かに「呪」という字には「まじなう」という読みもあるし「祈る」という意味もある。例えば「般若心経」でも「般若波羅蜜多、是大神呪」などのように使われている。「呪」という字そのものは特に悪い意味だけを持つのではない。けれども「呪殺」という熟語にした以上、そんな言い訳は通用しない。「呪」を「祈る」の意味で使っているのであれば「呪殺」は「祈り殺す」という意味にしかならない。こんなことは中学生でも分かる。

何度も言うが、カツドーカとはすなわち嘘つきである。セーギのためなら平然と嘘をつく。仏教をかじったカツドーカともなれば、自分の嘘のために仏教を都合よく利用するから、なおさらたちが悪い(そういうのはわが真宗大谷派の僧侶にもよくいる)。そして、そんな嘘がまかり通ると思っているのだからどうしようもない。

世間の批判を気にして「呪殺とは、殺人ではありません」などという見え透いた嘘の言い訳を用意しておくくらいなら、そもそも「呪殺」などという言葉を使わなければいいのだ。もしかしたら「煩悩を滅殺すること」を意味する「呪殺」という仏教語が本当に存在し、浅学な私が知らないだけかもしれないが、そんなものを知っている人は世間にほとんどいないだろうし、一般に「呪殺」といえば呪い殺すこと以外の意味には理解されない。「煩悩を滅殺すること」を意図するというのが本当なら、最初から「煩悩滅殺」と言えばいいだけの話である。わざわざ「呪殺」と言うからには、特定の対象を呪い殺すことを目的とする(少なくともそのような願望に基づく)行為であることは明白である。

仏教とは、自分の気に入らない者、自分のセーギにそぐわない者を、御仏の名によって呪い殺すことを是とする教えなのか。呪殺祈祷僧団の面々には、己のありようをまず見つめ直してもらいたいものだ。