過労死の話を聞くたびに、なぜ日本はこんな国になってしまったのだろうと暗澹たる気持ちになるのだけれど、高橋まつりさんの件を知った時は本当に胸が締めつけられるようだった。

あの電通に、ついに厚労省のメスが入った。これはある意味、象徴的な出来事かもしれない。この国の労働事情が正常化に向かうのかどうか、政治の本気度が試される。

高橋さんの残業時間について、私が最初に報道で見た数字は月105時間というものだった。ただし、遺族側弁護士が入退館時刻から算出したところでは130時間に至ったそうで、恐らくこれが実態に近い数字だろう。ともかく、105時間と聞いて私が最初に思ったのは、100時間程度の残業なら私も昔いた会社(旅行業界の外資系企業)で経験があるぞ、ということだった。

残業時間の数字は過労死認定の材料として分かりやすいため、高橋さんの件でも報道などではやたらとそればかりが取り沙汰されるが、これは良いことではない。なぜなら、私のように、その程度の残業なら自分も経験があると思ってしまう人が多いからである。実際、特に最近のIT業界などでは月100時間程度の残業は珍しい話ではない。高橋さんのような件では、残業時間の数字に加えて、ほかの要因が非常に大きいと考えなければなるまい。

数字として月100時間程度の残業なら異常とはいえないなどと言いたいのではない。100時間は十分に異常である。私自身の昔のことを思い出しても、あれはかなりしんどかった。よく体を壊さなかったものだと思う。ただ、数字だけをネタにしていると問題を見誤る。乱暴な言い方をしてしまえば、残業がゼロでも鬱病になる人はいるだろうし、100時間の残業をしながらピンピンしている人もいる。残業時間が一定の線を下回っていれば問題ない、という話ではないのだ。

月100時間程度の残業なら私も経験がある、と書いたが、もし高橋さんと同じ状況(彼女のTwitterのログによれば、命じられる事柄が常軌を逸していた上にパワハラがあったと察せられる)での100時間であれば、私もどうなっていたか分からない。ましてや130時間とか、28時(すなわち朝4時)に退社、睡眠が2時間とか、そんな条件下で心身をまともに保てるわけがない。

もし仮に、高橋さんの過剰な残業が彼女の能力の低さによるものだったとしても、彼女を責めることはできない。新卒入社してまだ半年の社員の能力が不十分なのは当然であり、そこへ月130時間の残業と休日出勤を要する仕事を課すのは、単に疾病に至らしめるしごきあるいはいじめと呼ぶべきもので、決して新人教育とはいえない。業務効率も非常に悪く、会社に不利益しかもたらさない。また、睡眠が2時間という状態の新人にさらなる仕事を負わせたら、ミスばかり増えて満足な結果になるわけがなく、部署全体の業務に差し障りが出かねない。そうなる前に対策を講じるのがまともな(というか普通の)上司の考えることであって、それをやらないのはマネジメントのマの字もない無能である。

こういうおかしなマネジメントの会社が「優良企業」として日本の広告業界のトップに君臨しているのは、この国の社会的病理という以外に形容のしようがない。

高橋さんのTwitterのログを見れば、そういう想像に至るのは容易である。何せあの会社だ。21世紀も16年目というこの時代に、新入社員の富士山登山などという訳の分からない“伝統行事”を継続しているような会社だ。残業時間の数字だけをやたらに取り沙汰するのは良いことではない、と私が言ったのはつまりこういうことである。数字だけ見ていては実態は見えてこない。

確かに月100時間超の残業は異常であるし、是正しなければならないものだが、その程度の残業なら経験した人も少なくない。高橋さんの130時間というのは壮絶だが、それが直接彼女を死に至らしめたのではない。労基署が認定したように彼女の自殺の直接的な原因は鬱病であって、過重な残業はその発症のトリガーとなった大きな要因ではあるが、しかし要因の一つでしかない。

たとえ残業がゼロであっても、毎日激しいパワハラを受けていれば、鬱にもなるというものだろう。鬱に陥ると自分の向かう方向についての適切な判断もできなくなる。月130時間の残業で疲弊しつつそういう目に遭えば、会社を辞めるとか休職するとか転職するといった方向にはなかなか考えが向かない。

死のうなどと考える前に病院へ行けばいいのに、と思う人が多いだろうが、電通のごとき企業で新卒1年目の社員が「病院へ行くので休みます」と上司に連絡するのがどれほどのハードルなのかと思えば、話はそう簡単ではない。私だったら休んでしまうが、あのような会社でなら、真面目な人ほどそうはいくまい。

そうそう、私も月100時間超の残業なら経験があると言ったが、残業はきつかったけれどパワハラはなかったし、繁忙期が割とはっきりしていたから別の時期に1週間ぐらいの有給休暇は平気で取れたし、ひどい残業続きで本当にもう無理だと感じたとき、体の不調を覚えたときにはサクッと休んでしまえる社風だったし、有給休暇の事後申請が可能な制度だったから欠勤扱いにはならずに済んだし、それでも実際に過労で病んでしまった社員には諸々のケアがなされたし、そもそも1人が1日休んだくらいで業務が著しく停滞することがないようフォローできる体制が整っていた、ということも言っておこう。そして、そういう体制作りはマネジメントの役割であるはずだ。

いや、私のいた会社が良かったなどと言いたいのではない。ひどい会社だった。今でもそう思っている。けれども、あのひどかった会社も、電通と比べればずいぶんマシだったように思えてしまうというだけのことだ。

高橋さんは激務になった当初、自分は頑張れると自信を持っていたふしがある。しかし、彼女はひと月で鬱の病魔に捕えられた。そうなるともはや本人の気合で何とかなるという段階ではなくなる。適切なケアが必要だし、会社にはそれをサポートする体制がなければならない。

ところで、世の中にはいまだに、鬱というのは意志の弱い奴がなるものだ、甘えだと思っているアホがいるようだが、そんなことはない。少しは鬱病のメカニズムを勉強したほうがいい。

残業が月130時間──。この数字はすさまじい。こんなふうでよいわけがない。だが、数字だけを見ていては、何が本当に高橋さんを死に至らしめたのかが見えなくなる。130時間は異常だし問題であるのはもちろんだが、それよりも問題となるのは、130時間が“常態”であることや、会社側がそれを是正しようとしているとは思われないことなどだ。どうせ、Googleがコンピュータに数分で自動処理させているような仕事を、電通は人間に数時間かけてやらせているのだろう。それでいいと思っているのだろう。

電通に入った厚労省のメスはより深く切り込み、日本の企業風土に“マツリ・ムーヴメント”をもたらすことができるのか。それとも一過性の儀式として終わってしまうのか。今後を注視したいところである。