日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムに、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(94)がビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言した。

この“タレント”にある種の幻想を抱いていた人たちも、目が覚めたのではあるまいか。私は曲がりなりにも仏教徒のつもりであるし、死刑制度については廃止を唱えているのだが、この人の言いぐさには全く共感できない。いや、彼女の言葉に共感を覚えないのは今回に限ったことではないのだが。

人間は誰しも、実際に殺すところまで至るかどうかは別としても「殺したがる」業を負った存在だ。私もまたそうである。もし生まれてこの方一度も一瞬たりとも殺意を抱いたことがないと言う人がいれば、その人は嘘をついているか、殺意を抱いた経験をコロッと忘れているか、あるいはたまたま今まで殺意を抱く縁のない幸運な境遇で生きてきただけのことだろう。

そうした身の事実を仏法に照らされ引き受けることができないのなら、あるいは引き受けられないという自分の姿を見ることすらできないのであれば、その人は仏者といえるだろうか。「殺したがる」ことがない“仏教的に正しい”善なる者として、「殺したがるばかども」という“仏教的に正しくない”悪なる者と「戦」う姿勢は、仏者のものであるといえるだろうか。

仏光に己の身を照らされることがあるならば、反対側の立場の人々からは「凶悪犯を生かしておきたがるばかども」と言われるかもしれない自分であることに気づくはずなのだが。瀬戸内氏が袈裟をまといながら94歳の今に至るまで自分自身に出遇う機縁がなかったのは残念だ。