昨夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」第18回「岐路」では、そのタイトルの通り様々な岐路が描かれました。藤原宣孝が任地の筑紫から帰京し、藤原道長は意図せずして政権の頂点に就き、まひろ(紫式部)の親友さわは宣孝と入れ違いのように筑紫へ向かうことになります。実は、さわは実在の人物をモデルにしているようでして、紫式部の親友が実際にこのぐらいの時期に筑紫へ下向し、かの地で亡くなったとのこと。その史実を踏まえるならば、今回はまひろとさわの今生の別れであったわけです。

藤原道兼がいわゆる七日関白の末、最期にどんな言葉を道長に残すのかに、私は注目していましたが、ドラマでは遺言のような場面は特に描かれませんでした。ただ、道兼が真言を唱えながら言った「俺は浄土に往こうとして祈るのか。無様な。こんな悪人が」という独り言を、道長は聞いていました。そして、道兼の死去を受けてのまひろの琵琶も意味深いものでした。道兼の死をめぐるこれらの場面で、私の頭の中には「わが愚かさを悲しむ人あり。この人すでに愚者にあらず」とか「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とか「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない」とか、仏教の言葉がグルグル回っていました。実際の道兼がどんな人柄であったのか分かりませんが、もし本当にあんなふうであったなら、七日関白で終わってしまったのは実に惜しいことです。

一方、もくろみが外れて一度ならず二度までも関白になり損ねた藤原伊周ですが、八つ当たりのように中宮定子に向かって「皇子を産め」と迫るという、変な形で父親の行動を受け継いでしまっているのは笑うに笑えませんね。次回(第19回)のタイトルが「放たれた矢」というのでも分かる通り、次回から伊周は思いっきり転落の人生になるわけですが、もう少し道長と仲良くしておいたほうが得策だったのでは。まあ、そこまで考えが至らないのはやはりしょせんは若造なのかなと。

そうして世はうつろい、人はそれぞれの岐路に立ち、しかしながらいつまでも変わらないのがあの六条の廃屋──。