ひと月ほど前になるが、おもしろい話を聞きかじった。平和教育に関わっている人たちが、学校が夏休みになる〈書き入れ時〉を迎えるに当たり、ウクライナの戦争について子供たちにどう話せばいいか分からず、困っているという。そこでその人が自分なりに悩みに悩み抜き、内容の是非はともかく何を話すべきかの結論に至るのであればまだよいけれど、ウクライナに触れるのはやめておこうという結論を早々に出した人も多かったそうである。さもありなんとの感しかない。

子供の勘は鋭い。平和平和と言いながらウクライナのウの字も口にしない大人の虚偽など、簡単に見破る。小学生の語彙にはまだないかもしれないが、感覚的に、上っ面のきれいごとしか言えない大人どもだということを察知するだろう。小学校高学年にもなれば、ニュースをしっかり見ている優等生も少しいて、平和教育の大人たちが避けるウクライナの件を直球で質問してくるかもしれないが、そんなときに「早く戦争が終わるよう祈っています」ぐらいのことしか言わない大人に、子供は唖然としそして失望するだろう。中学生にもなれば、失望どころかはっきりとあざけりの感情を持つかもしれない。

日本で行われてきた平和教育とは果たしてどういうものであるか、ざっくり言ってみると:

〈日本はかつてあちこちに戦争をしかけて悲惨な被害をもたらした上に、ボコボコに反撃されて国内も壊滅的になった。全部そもそも日本が悪い。日本は悪い国なので軍隊など持ってはいけない。日本という悪い国がおとなしくしてさえいれば、よその国から攻められることはない〉

──といったような、明らかに何らかの狂った信条を多分に含んだものである。

戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えるのは悪いことではない。積極的に進めればいい。いわゆる平和教育とやらの問題はそれ以外のところにある。そして、だからこそ、平和教育の面々の多くは子供たちを前にしてウクライナのウの字も口にできなくなってしまっている。あるいはせいぜい「早く戦争が終わるよう祈っています」ぐらいの空しいことしか言えなくなっているのである。

〈こちらがおとなしくしていれば、向こうが攻めてきたりするはずがない〉といういわゆる平和教育が間違いであることを、ウクライナの現実が示してしまっている。さらには、中共が台湾周辺で続けている軍事演習や日本の排他的経済水域に撃ち込んできた5発のミサイルも、平和教育が明らかに誤っていることを示してしまっている。平和教育の思考様式によれば〈そもそもアメリカが悪い。アメリカと同盟している日本や台湾が悪い。だから中共のあの行動は仕方がない。そもそも中共が悪いはずがない〉という不可解な前提かつ結論が用意されているのだが、そんなものは内輪の飲み会でしか盛り上がらないたわごとである。

さて、本シリーズのテーマ「真宗門徒が世界平和を願うということ」について考えてみよう。すなわち、真宗門徒はウクライナの戦争について、何を言い何をすべきなのか。

先に言ってしまうと、そこに正答のごときものはない。ウクライナの戦争に関してこう考えこう発言しこう行動すべきだ、という正解を与えてくれるものが仏教・浄土真宗の教えであるなどと、あなたがもし思っているのだとすれば、そもそもあなたの聞法姿勢に根本的な誤りがあると認識すべきだろう。

現在の状況において真宗門徒のなすべきことは、教えに照らして考え、悩み、己の身に引き当てて問い、いかなる決断であろうと決断し、そしていかなる決断であろうとその決断が絶対善たり得ないことを改めて照らされ、考え、悩み続けること──それ以外にないのではあるまいか。ウクライナの戦争はどう解決されるべきなのか、日本や台湾がウクライナのような状況になったらどうすればいいのか、実際に敵兵が銃口を向けてきたら自分や家族はどうすべきなのか、そういう問いに対して仏教的に本当に正しい答えなど、恐らくないし、あったとしても私たちがたどり着くことはほぼ無理だろう。誰もが何らかの答えを出しつつ、そしてその答えが正しくないことを仏法に照らされ、また考え悩む、その歩みを続けるしかないのではあるまいか。私たちはウクライナの戦争からも問われ続けるのだ。

そう、「真宗門徒が世界平和を願うということ」について、本当に正しい答えなど見つけようがない。とはいうものの、逆に、明らかに間違っている答え、最悪の回答例ともいえるものはあって、それをネットで大っぴらにさらしてくれている恥ずかしい真宗教団が存在するから、参考のため紹介しておく:

私たち真宗大谷派は、このたびのロシア連邦のウクライナに対する侵攻をはじめとして、あらゆる武力行使に対して反対の意を表明します。

また現在、恐怖と悲しみの中にいる多くの人々に平和が取り戻されることを強く望みます。

私たちは、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、1995年の『不戦決議』において、「すべての戦闘行為の否定」とともに、「民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにする」ことを誓いました。

このたびの国家間の問題のみならず、世界にはミャンマーをはじめとした、今なお武力による衝突や弾圧の続く国や地域があります。あらためて、すべての武力行使に対して反対の意を表するとともに、一日も早く安穏なる日々が訪れることを願います。

何度読み返してみても仏教のブの字もない。宗派名や「教団」の文字を墨塗りにしたら、どういう種類の団体・組織が出した声明なのかすら一般の人々には分からない文面だ。

そして、ダラダラと書かれているが内容は一言で要約できる。すなわち〈せんそうはよくないとおもいます〉である。先に述べたような、平和教育の関係者がウクライナへの具体的な言及から逃げて「早く戦争が終わるよう祈っています」ぐらいの空しいことしか言っていないのと、同次元だ。戦争はいけないと言いつつ戦争を起こす人間がいかに愚かで悲しい生き物であるかということ、すなわち罪悪深重の凡夫であるわれらという課題に、少しも触れていない。親鸞聖人の教えを伝える教団の宗派声明がこんなふうでいいのだろうか。

さらに、最後にもう一つ言っておきたい。

わが大谷派において平和だの護憲だのと言っているたぐいの僧侶・門徒たちの多くも、どうせその程度のものであろうことは、彼らのふだんの浅はかな言動から容易に察しがつく。彼らは自分たちのすばらしいカツドーを継続するため、きっとこんなふうなことを言うはずだ: 「国内の右翼勢力が、ウクライナや台湾の問題を利用して、憲法改悪と軍国主義への道を開こうと画策している。われわれは『兵戈無用』の旗印のもと、憲法9条と平和を守るべく、よりいっそう強力に運動を進めなければならない!」─。そうやって彼らは先鋭化してゆくのだろう。彼らは世界平和なんか願っていない。