今年の春、叔父が亡くなった。

納棺に先立って家へうかがうと、安置された遺体に守り刀が置かれ、かたわらに一膳飯などが供えられていた。これは本当に驚くほどにたまたまであるが、私は葬儀や仏事というと浄土真宗のものしか出たことがない。他宗のことについては話で聞いたことしかないので、初めて目にする実物の守り刀や一膳飯などを興味津々で見ていた。叔父の実家の宗旨は禅宗だから、きっと禅宗の流儀にならっているのだろう。

ところが、想像できなかった事情が直後に判明する。

「ちょっと見てほしいんだけど、金額とかどうなのかしら」と、叔母が一枚の紙を私に差し出した。見ると、僧侶手配サイトによる布施など費用の見積書である。おお、これが噂に聞くネットのあれかと、これまた私は興味津々で目を通したのだが、すぐに不審に思わざるを得なかった。というのも、手配された僧侶というのが、素性の明らかな浄土真宗の布教施設の方だったのである。

──はて、浄土真宗なのに、なぜ守り刀や一膳飯が?

と私が疑問を口にするより先に、叔母と従妹が経緯を話してくれた。

亡くなった叔父は宗教には全く無頓着だった。叔母もその点は同様である。葬儀は、すぐ近くにふだんから近所付き合いをしている小さな葬儀屋があるので、そこに依頼した。菩提寺がなく、宗派にこだわりはないという旨を伝えたところ、その葬儀屋が、僧侶手配サイトのことを教えてくれたという。

最初から当たり前のようにそんなサイトを勧めてくるところからして、いいかげんな仕事しかしない葬儀屋なのだが、叔母たちにはそれが分からない。いいかげんな葬儀屋だから、葬儀に来る僧侶の宗旨も確認せずに守り刀や一膳飯を置いたりしやがる。さらに後日、納棺の際も叔父の遺体に変な旅装束を掛けたり、三途の川の渡し賃なるものを徴収したり、おかしなことばかりだった。はっきり文句を言いたかったが、叔母の今後の近所付き合いにも関わるため、外野の私は口をつぐんでいた。一応、還骨まですべて済んだあとで、あれがおかしいこれがおかしいと叔母に説明したけれど。

話を戻そう。叔母の代わりに従妹が僧侶手配サイトで〈近場の安い僧侶〉を検索し、件の浄土真宗の僧侶を見つけたとのことである。浄土真宗の葬儀には余計なものがないから、他宗の場合より費用が低くなる傾向があるようだし、さもありなんといった検索結果か。ちなみに、その見積の内容は、私の感覚としては、確かに安めではあるけれど、従来通りに浄土真宗のお寺を頼った場合と比べて極端な違いのある数字とは思えなかった(もちろん地域差その他の事情により変わるだろうが)。

「浄土真宗っていえば、あなたの家は浄土真宗でしょ。あなたの家のお葬式の時に来たお坊さんのお話、すごく良かったから、うちの葬式も浄土真宗でいいかなって」などと叔母は言う。だったら僧侶手配サイトで検索したりする前に私に相談しろよと言いたくなるのだが、話しているうちに、そう簡単なことでもないと気づかされた。

一言でいうと、とにかくお寺は信用されていないのである。ふだんからお寺に通っていたりすると、どうしても〈一般的な感覚〉を忘れてしまいがちだ。お寺と接触のない人々の〈一般的な感覚〉としては、お寺というのは信用できないのである。〈一般的な感覚〉としては、廉価で明朗会計の僧侶手配サイトのほうが安心で信用できる。

叔母の場合、田舎の生まれ育ちということもあって、お寺付き合いがひどく面倒でうっとうしかったという記憶があるようだ。良いお寺と付き合っていきたいという考えなどない。そもそもお寺と付き合いたくないのであって、良いも悪いもない。葬儀や仏事の時だけ来てくれればいいのだ。

お寺など信用できないし、お寺と付き合いたくない。これが〈一般的な感覚〉だ。お寺の方々は基本的にこのことをよくわきまえておくべきである。あなたがたは、大変残念ながら、世間の大多数から信用されていない。葬儀などで仕方なく呼ばれるだけだ。ふだん顔なじみの門徒たちからご院さんだの若さんだの言われ、葬儀社の依頼で一見さんの葬儀に行けば遺族が丁寧に(というか形式的に)頭を下げて布施をくれるから、すっかり感覚が狂って分からなくなっているだろうけど。

私も、お寺に通っていて〈一般的な感覚〉が薄らいでいるとはいえ、よく覚えている。

母が亡くなった折、私は前から仏教には関心があったので、これを機に聞法を始めようと思った。当時まだ黎明期だったネットにはろくに情報がなく、『タウンページ』を開いて近場にある真宗大谷派のお寺を探して電話をかけるという、いかにも前世紀的な手法をとらざるを得なかった。

「そちらで定例の法話会などは開いていらっしゃいますでしょうか。もしあるようでしたら、参加させていただけないかと思いまして」と尋ねてみる。何軒かのお寺に問い合わせたけれど、どこのお寺も、何の前置きもなくぶっきらぼうに一言目で同じ言葉を返してきた:「墓地は空いてませんよ」─。

質問に対する回答になっておらず、会話が成立していない。お寺というものと全く関わりのなかった私が、人生で初めていくつかのお寺に電話をかけてみて知ったのは、僧侶や寺族という人々は日本語コミュニケーションにかなりの難があるらしいということだった。

何せ、法話会があるのかどうかという問い合わせに対して、いきなり一言目から「墓地は空いてませんよ」だ。もちろん、法話会を開いているお寺の場合であれば「法話会はありますけど、念のため先に言っておきますが墓地は空いてませんよ」という文脈として理解できなくはない。しかし、どこもかしこも結論からいえば法話会のないお寺だったので、最初にいきなり「墓地は空いてませんよ」と返してくるのは無意味であり、単にこちらを不愉快にさせるだけの効果しかない。法話会の有無を訊いているのだから、ないのであれば、ないと最初から答えれば済む話だろう。

墓地を探しているのではなく、法話会があるかどうかを尋ねているのだと、改めて言う。すると、これまたどこのお寺も同じ言葉を返してくる:「法事のご依頼ですか?」─。

何軒も続けてこれをやられると、さすがに気が滅入ってくる。宗門系の教育機関の教員たちに言いたい。あなたがたは学生・生徒に何を教えているのか。あなたの教え子たちは、仏法だのと言う前に、義務教育修了程度の国語理解力すら持ち合わせていないではないか。

とにかく、私のお寺との最初の接触はそんな調子だった。だから〈一般的な感覚〉は私にはよく分かる。お寺など信用できない、お寺と付き合いたくない、お経を読んでさっさと帰れというのは、至って普通で真っ当な感覚だ。

幸い私はその後、聞法の場としてのお寺に出遇えたが、つくづくありがたい御縁であったと思う。もしその御縁がなかったら、今の時代であれば、やはり私も叔母と同じく葬儀には僧侶手配サイトを利用するだろう。それが〈一般的な感覚〉だ。

寺は風景でしかなかった。
[オウム真理教のある信者が、なぜ先にお寺で仏教を聞こうと思わなかったのかと問われて、答えたという言葉]