2年近く前、なぞなぞのような記事を出しておきながら、答えは読んだ人が自分で考えろという感じで突き放しておいた件がある。そろそろ答え合わせをしておこうか。

要点だけさらっておくと、SNSで広まっていた「政党座標テスト」なるものを試したところ、私の政治思想の傾向は〈中立よりわずかに左寄り〉であるとの診断結果が得られた。そして、それは私自身の自己評価とも合っている。

右図がその診断結果のチャートだ。見ての通り私は〈中立よりわずかに左寄り〉である。

しかるに、リアルでもネットでも、私のことを「右寄り」と評する人が少なくないらしいことは知っている。なぜこのような評価のずれが生じるのであろうか。なぜ〈中立よりわずかに左寄り〉の私が、他人からは「右寄り」などと言われたりするのであろうか。どういう理由によるのか。2年前の私の記事は、そういう問いを投げかけたつもりである。

実は、答えは簡単だ。極めて根本的な次元の話なのだ。日本で使われる「右寄り」「左寄り」という言葉は、本来の意味から離れてしまっていて、空疎なレッテル貼りにすぎないからである。

「保守」「リベラル」「右派「左派」──日本ではこういった用語が正しく使われていない。上記の「政党座標テスト」は、国際的な常識、本来の意味による「右派」「左派」「共同体主義者」「自由主義者」の傾向を判定している。ところが、日本ではそれらの用語が正しく使われていないので、実際には左寄りなのに「右派」のレッテルを貼られたり、右寄りなのに「左派」のレッテルを貼られたりする。

日本では政治思想の傾向を表す用語が適切に使われていないため、それらを使うと誤解を増幅するだけなので、私はできるだけ使いたくないのだけれど、しかし、代替となる適切な言葉がないから困る。仕方がないので「日本でのいわゆるリベラル」「似非リベラル」「リベラルと称される人々」といった言い方をするようにしているが、毎回その言い回しでもうっとうしいので、単に「リベラル」としてしまうこともなくはない。

そう、日本で「リベラル」「左派」と称される人々は、ちっともリベラルではないし左派ではないことが少なくない。もちろん「保守」「右派」の語についても同様だ。

分かりやすい話をしよう。

保守であろうとリベラルであろうと、右派であろうと左派であろうと、政治思想はすべからく愛国的たるべきである。おっと、「愛国」という文字を見てすぐに眉をひそめるような人は、すでに最初から変なバイアスがかかっているから、十分に気をつけたほうがよい。どんな政治思想であっても〈いい国を造ろう〉という基本的な思いはみな同じはずであり、それを「愛国」というのである。ただ、それぞれの考える〈いい国〉の形が、資本主義だったり社会主義だったり、君主制だったり共和制だったり、小さい政府だったり大きい政府だったり鎌倉幕府だったりする違いがあるだけだ。

ところが、今ちょっと触れたように、日本には「愛国」という言葉を聞いただけで眉をひそめる人がやたらに多い。主にいわゆるリベラルとされる人々だ。そして「愛国」という言葉を口にしただけで「保守」「右翼」のレッテルを彼らから貼られる。実に奇妙である。

アメリカの共和党も民主党も、党大会などでは必ず星条旗を掲げる。保守もリベラルも〈いい国を造ろう〉という愛国的な思いであることに変わりはないわけだから、愛国の象徴としていずれも国旗を掲げるのである。しかるに、日本の政党でイベントの際に日の丸を掲げるのは、自民党と一部少数野党に限られる。実に奇妙である。

昨年からフランスでは〈黄色いベスト運動〉なるものが繰り広げられている。右派のマクロン政権の施策に反発する抗議活動であり、一部は暴徒化に至った。この活動は右派とか左派とかを超えた動きであるが、参加者の多くがトリコロールを振っている。国政を問題とするデモは、当然〈いい国を造ろう〉という愛国的な思いによるものであるので、愛国の象徴として国旗を掲げるのである。しかるに、日本でのSEALDsなどのデモでは、日の丸を全く見かけなかった。実に奇妙である。

目下イギリスでは、EU離脱(いわゆるブレグジット)が問題となっている。離脱賛成派、反対派がそれぞれにデモを開催するが、いずれもユニオン・ジャックを掲げている。もちろん物事の性質上、反対派のほうは欧州旗を振っている人が圧倒的に多いが、ユニオン・ジャックもちらほら見える(旗を2つ振るのは大変だし、こうなってしまうのは仕方がない)。とにかく、イギリスにおけるEU離脱賛成派も反対派も〈いい国を造ろう〉という愛国的な思いに変わりはないので、愛国の象徴として国旗を掲げるのである。

海外で国政を問題とするデモで国旗が掲げられていなかった最近の例としては、私が思いつくところでは、スペインのカタルーニャ分離独立運動がある。カタルーニャ独立旗が専ら振られ、そこに少数の欧州旗が混じり、当たり前だがスペイン国旗は見当たらなかった。国政を語るデモにおいて国旗が掲げられないというのは、つまりそういうことだ。

常連読者の方は知っての通り、私はしばしば表現の自由について語ることがある。表現の自由を擁護するのは、傾向としていえば保守ではなくリベラルであり、右派ではなく左派であるというのは、世界の常識だ。ところが、日本においては不思議なことに、例えば児童ポルノ禁止法を改定して漫画やアニメも規制対象に含めようなどと反リベラル的なことを訴えているのは、いわゆるリベラルと称される方面の人々なのである。自民党は、統一はされていないが、表現規制には慎重であるべきという意見のほうが多い。そう、自民党のほうが実際はリベラルなのである。

「いやそんなことはない。日本のいわゆるリベラルは表現の自由を訴えている。先ごろから話題の『表現の不自由展』だってリベラルとされる人々によるもので、圧力を加えてきているのは保守とされる人々ではないか」と思うかもしれない。はっきり言っておくが、似非リベラルの言うところの「表現の自由」とは、自分たちの思想信条にかなった表現に関しては無制限に自由が認められるけれども、自分たちと相容れない思想信条の表現には法的規制を加えるべきだという、極めて不公正なものだ。現にあの企画の芸術監督とやらは、自分たちの行っているすさまじいまでのヘイト表現についてはアートだ表現だと言い張る一方、自分たちと異なる思想信条に関しては「一線を越えた差別表現というものは言論の自由の対象ではない」などと言ってのけていたという、何とも都合のいい二重基準を見せている。こんなのはリベラルでもなんでもなく、〈われわれの差別はきれいな差別、あいつらの差別は汚い差別、汚い差別は法律で取り締まれ〉という話にすぎず、単に独善的なだけである。

日本では、保守とされる人々が、けしからんと思う表現を批判したり、その表現のために公的補助が施されることについて抗議したりするということは、よくある。「表現の不自由展」をめぐる騒動もそれだ。一方、リベラルとされる人々の場合、けしからんと思う表現に対して批判する等にとどまらず、法的規制をかけようと動く。さらに、自分たちの表現に対する批判等をも様々な形で封殺しようとする。表現の自由というものを理解し尊重しているのはどちらであるか、もはや明らかであろう。

このように、リベラルや左派を標榜する人々が、実態としてはちっともリベラルでも左派でもないという話は、挙げていけば切りがない。日本で使われる「保守」「リベラル」「右派」「左派」といった用語は、元の意味をすっかり失ってしまっているのである。

さて、保守であろうとリベラルであろうと、右派であろうと左派であろうと、政治思想はすべからく愛国的たるべきであるという世界の常識に照らした場合、日本において見かけるような「愛国」という言葉を忌み嫌う政治的勢力、党大会などで日の丸を揚げないような政治的勢力は、そもそも性質としては政治的勢力ですらないと断言してよい。それらの支持者も含めて、単に反国家的かつ反国民的な勢力でしかないのである。もちろん思想信条は自由であるから、彼らを弾圧しろなどと彼らと同じようなことを言うつもりはないが、彼らの思想信条が反国家的かつ反国民的でしかないという点は押さえておく必要がある。

日本でいうところのリベラルなるものの大半は似非リベラルであり、本来の意味のリベラルとは全く別ものなのである。なぜなら、本来のリベラルや左派とは、保守や右派と同じく愛国的であるはずなのに、彼らの大半は反国家的かつ反国民的な勢力であるのが実情だからだ。

実のところ現在の日本においては、自民党および一部少数野党の中に、保守からリベラルまで、右派から左派までが内包されている。自民党イコール保守、右派と考えるのは間違いであって、自民党および一部少数野党の中にすべてが含まれているのである。そして、それら以外は、保守でもリベラルでもなく、右派でも左派でもなく、反国家的かつ反国民的な勢力にすぎない。

自民党一強の原因は野党が駄目だからだ、野党がだらしないからだと言われるのは、まさにこういうことだろう。実際のところは〈いい国を造ろう〉という思いがなく、とにかく現政権をぶっ壊すのが自分たちの仕事だと勘違いしている限り、国民の支持を集めることはあり得ない。反国家的かつ反国民的な勢力など、右を自称しようが左を自称しようが、国民から支持されるわけがないのだ。

そろそろ分かってきただろうか。自分で自分のことをリベラルだと思っている人は、本当にそうなのか、じっくり考えてみたほうがいい。