過日放送されたテレビ番組の中で、街にいる声のいい素人を集めて「神の声合唱団」を作るという企画があったそうで、その合唱団の面子に僧侶もいたと耳にした。まさかYouTubeには上がっていないだろう、と思いつつも一応探してみたら、あった:

  • https://www.youtube.com/watch?v=Yns5UBehqpo&t=48m50s (リンクは動画の48分50秒頭出し) http://dai.ly/x3iq8c3?start=1220 (リンクは動画の20分20秒頭出し)

合唱団の中に法衣を着て輪袈裟をかけた方がいる。然り、僧侶である。サンタ帽をかぶって「きよしこのよる」と「クリスマス・イブ」を歌っている。その素性は、動画を少し巻き戻して38分58秒8分27秒辺りから視聴してみれば、本堂の荘厳などから、わが真宗大谷派の方であると分かる。

彼はただの僧侶ではない。一寺院を預かる住職であり、それのみならず、聞き及んだところでは、宗門において安からぬ務めを負う立場の方であるという。ならば、法衣はどういうときに着るべきものかということくらい、わきまえていなければおかしいのではなかろうか。

法衣を着ていないのであれば別に文句はない。合唱団の一員として普通に歌を歌うだけなら、サンタ帽をかぶっていようと、それがキリスト教聖歌であろうと山下達郎の駄作であろうと、別にかまわない。僧侶であることを名のることも支障はない。しかし、テレビの娯楽番組の企画で法衣を着た上にサンタ帽をかぶり「きよしこのよる」などを歌ったとなれば、単に法衣を“見せ物”にしたという批判は免れまい。

外出時には必ず法衣を着るという信条の持ち主であればまた話は別だが、恐らく本件の僧侶はそうではないだろう。彼は楽団の一員としてコンサートでフルートやリコーダーを演奏することもあるようだが、まさかいつも法衣を着てステージに上がるわけではあるまい。

あるいは、歌を歌ったあとで出演者と観客に法話をし、その様子もしっかりテレビで放送されたというのであれば、一応納得できるかもしれない。しかし、本件の僧侶がそのように法衣に見合った働きをしてくれたとは見受けられない。

私たち真宗門徒にとって、僧侶とは私たちの先頭に立ってともに聞法の道を歩んでくれる方であり、私たちを導いてくれる方であり、法衣はその記号である。しかるべき場面のための装束であると理解している。そんな法衣をおちゃらけた見せ物にされてしまうのは残念だ。

浄土真宗の教えは、自分に都合良く恣意的に解釈しようと思えばいくらでもできてしまうから、『真宗聖典』の言葉をうまく拾い集めて継ぎ接ぎすれば、テレビでサンタ帽をかぶって「きよしこのよる」などを歌うことも仏法の仕事であるという強弁は可能かもしれない。けれども、そうしてこねくり上げた屁理屈はしょせん屁理屈にすぎない。すでに見透かされていると知るべきだ。

さすがにあなたはとてもいい声をしている。声に自信のない私にとってはとてもうらやましい。だが、テレビで法衣を娯楽の材料にするだけで、法衣を着て語るべきことを一言も語らず、門徒とともに歩む姿を見せないあなたの声は、少なくとも私の耳には僧侶の声ではない。