
念仏するそうのあかつきにぬかづくおとの、たふとくきこゆれば、とをおしあけたれば、ほのぼのとあけゆく山ぎは、こぐらきこずゑどもきりわたりて、花もみぢのさかりよりも、なにとなくしげりわたれるそらのけしき、くもらはしくをかしきに、ほととぎすさへ、いとちかきこずゑにあまたたびないたり。
たれにみせたれにきかせむ山ざとのこのあかつきもをちかへるねも
このつごもりの日、たにの方なる木のうへに、ほととぎす、かしがましくないたり。
みやこにはまつらむものを郭公けふ日ねもすになきくらすかな
などのみながめつつ、もろともにある人、
「ただいま京にもききたらむ人あらむや。かくてながむらむと思ひおこする人あらむや」
などいひて、
山ふかくたれか思ひはおこすべき月見る人はおほからめども
といへば、
ふかき夜に月見るをりはしらねどもまづ山ざとぞ思ひやらるる
念仏する僧侶が暁に礼拝する音が、尊く聞こえてくるので、戸を押し開けると、少しずつ明けゆく山ぎわの、薄暗い梢に霧が広がっている。花や紅葉が盛りの季節よりも、何となく一面に木々の茂っているこの季節の空の様子は、曇り気味で風情があり、ほととぎすまでもが、とても近い梢にいくたびも鳴いている。
誰に見せ、誰に聞かせようか。山里のこの暁の光景も、繰り返すほととぎすの鳴き声も。
あの方といっしょに見て、いっしょに聞くことができたなら──。
この4月の30日、谷のほうにある木の上に、ほととぎすがやかましく鳴いていた。
都では、ほととぎすの初鳴きを待っていることでしょうね。ここでは、そのほととぎすが今日、一日じゅう鳴いて暮らしていることですのに。
と詠んだりしながら、ぼんやり景色を眺めていると、いっしょにいる人が、
「今この時、京都でもほととぎすの声を聞いているような人がいるでしょうか。わたしたちがこうしてぼんやりと眺めているだろうと、思いを馳せてくれる人がいるでしょうか」
などと言って、
山深くいるわたしたちに、誰が思いを馳せてくれるでしょうか。月を見る人は多いでしょうけれど。
と言うので、わたしはあの方を思いながらこう詠んだ。
夜更けに月を見る折の気持ちは知らないけれども、今この時ならば、まず山里に思いを馳せずにはいられないものです。
いささかしるす
夏の山里の風情をつづった箇所ですが、前の「二十九. 東山へ移る」の下りからのつながりで読み解くとおもしろいのではないかと、私は勝手に思い、勝手にそういう訳し方をしました。