憲法9条は“仏の願い”ではない〔2〕
先日「憲法9条は“仏の願い”ではない」という記事を書いたのだが、私が諸事バタバタしているうちに、「真宗大谷派九条の会」とやらの設立集会が開かれていたらしい。
※ 「しんぶん赤旗」(ウェブ版) >> 「『真宗大谷派九条の会』設立 教団の『不戦決議』実践」
私は「呼びかけ文」全文を読んだわけではないし、実際に講演を聞いたわけでもないので、断定的なことは言えない。が、少なくとも上記記事を読む限りでは、私の先日の“予言”がすでに当たっているかのように思われる。また、4名の「呼びかけ人」の中には、私が法話をいただいて感銘を受けた方もあり、実に残念だ。
‥‥「この決議[大谷派の「不戦決議」]をステップにして、いよいよ腹を据えて本願念仏に生きる証を表現していく責務がある」(呼びかけ文)として「九条の会」を設立したもの。
[同]
この人々が言うには、本願念仏に生きる人はその証として、護憲運動に関わらなければいけないらしい。護憲運動に関わらない人は、異安心であるらしい。
「『会』設立は、真宗と出会った人間としてという一点からの所作」‥‥
[同]
この人々が言うには、真宗と出会った人間は、護憲運動に関わらなければいけないらしい。護憲運動に関わらない人は、真宗と出会っていないらしい。
我が宗門を代表するような教学者の面々が、浄土真宗の信心獲得の指標(といってもそんな指標はあり得ないはずなのだが)を、護憲運動への賛否に求めているとは、実に嘆かわしい。浄土真宗は一体いつから「護憲運動に関わる者こそが“正しい仏教徒”だ」などという宗教エリート主義的ドグマを掲げるようになったのだろうか。
「憲法9条は“仏の願い”ではない」でも述べた通り、「兵戈無用」と憲法9条は異質である。憲法9条は「兵戈無用」に“似ている”し、“通じる要素がある”のは確かだけれど、同じものではない。憲法9条は断じて“仏の願い”ではないのである。
憲法9条が“仏の願い”ではないことは、ほかならぬその憲法自身が明示している。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
[日本国憲法前文]
噛み砕いて言うと、「ぼくたち、にっぽんは、せんそうなんかしないで、がいこくとなかよくして、『いいこねぇ、えらいわねぇ』と、がいこくからほめられたいです」という趣旨である。つまり、日本はなぜ戦争を放棄するのかといえば、「がいこくからほめられたい」(国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ)からなのだと、憲法自身が述べているのである。
これの一体どこが“仏の願い”なのだろうか。どこからどう見ても“エゴの願い”でしかない。 「兵戈無用」と描写される仏の願いは、「諸外国から誉められるようになるため、戦争をやめなさい」という底の浅いものではない。
以前の記事でも述べたことだが、私自身は護憲寄りのつもりだし、我が宗門の僧侶・門徒が護憲運動に関わることを否定しないし、仏教の観点からまるっきり否定されるべきものでもないと考えている。しかし、「憲法9条は“仏の願い”である」というような根本的な勘違い、第1ボタンのかけ違いは、肯定するわけにはいかない。

Comments
「護憲運動に関わる者こそが“正しい仏教徒”だ」
といわれる方は一部だと思うんですよ。
多いか少ないかはわかりませんが、
関わっていないことで、僧籍剥奪されるわけでもないので。
私の主観ですが、呼びかけ文について、
同時期にジェンダー問題のガイドラインができたこと、
ハンセン病問題について署名運動の呼びかけなど、
宗派から案内が届きましたが、
それらに比べると、「真宗大谷派九条の会」のものは
大変いい加減なものだと感じました。
実はその辺が知りたくてブログに記載しましたが、
私がなんとなく腑に落ちなかったことをきちんと指摘されたのはここだけだったと思っています。
少なくとも私は小山さんの言葉にあえてよかったと思うし、
教えていただいたことを伝えていきたいと思っています。
ありがとうございます。
>決起集会の案内をいただいたのですが、日を公開することは反対圧力の心配もあったので伏せました。
事前にネットで大っぴらにすると、変な街宣車とかが寄り集まってきちゃいますから (^^)
>それらに比べると、「真宗大谷派九条の会」のものは
>大変いい加減なものだと感じました。
「○○することは、本願念仏に生きる者の証である」
「○○することは、真宗と出遇った者としての所作である」
という“ひながた”が先に用意されている感じが──。
「○○」の部分は、戦前は「戦争協力」で、今は「護憲」。
言葉を入れ替えただけで、構造は同じ。
その構造自体が、迷いなんじゃないかと思うんですけどねぇ。
“ひながた”に頼りすぎると、人間は物を考えなくなります(実体験)