憲法9条は“仏の願い”ではない
私はどちらかといえば護憲寄りの立場であるし、あるいはそうでなくとも、我が大谷派の僧侶・門徒が護憲運動に関わること自体に異は唱えない。しかし、しばしば聞く「憲法9条は仏の願いである」というたぐいの言説には、甚だしい違和感を覚える。
憲法9条は“仏の願い”ではない。憲法9条は“人間のエゴの願い”だ。
『仏説無量寿経』に「兵戈無用」という言葉がある。憲法9条の条文は一見これに似ているように見えるが、根本において全く性質が異なる。「兵戈無用」は“仏の願い”が具現化された世界を描写する言葉であり、憲法9条は“人間のエゴの願い”を条文化したものである。“大悲”の言葉と“小悲”の言葉という、決定的な相違がある。
早い話、「兵戈無用」と言い表される仏の願いとは、憲法9条を超越した願い、すなわち“憲法9条さえもいらない世界”だ。憲法9条を持たなければならないような悲しい人間の世界は、どこまでいっても「兵戈無用」ではあり得ない穢土だ。まさに私たちの心が穢土ということでもある。
もし憲法9条が仏の願いにかなうとすれば、それは阿弥陀如来の十九願においてであろう。
一九 たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。
[『仏説無量寿経』。ただし、真宗聖典編纂委員会編『真宗聖典』(京都、東本願寺出版部、1978年)18頁]
つまり、「本願を疑い、護憲運動に熱心になっている愚か者であろうとも、私は最後には必ず救うぞ」という如来の誓願である。
別に、十九願だからといって、いけないという訳ではない。小悲だからといって、いけないということはない。十九願であり小悲であることを踏まえた上で、縁のあるところで自分を尽くせばいいというだけの話だ。だいたい、人間の考えることなんてそう簡単に十九願から出られるものではない。
ところが、護憲運動大好き僧侶たちというのは、自分たちのやっていることが十九願であるとか小悲であるとかいう事実を認めるのを、ことのほか嫌がる傾向がある。いろいろ拙い言葉を連ねて、自分たちのやっていることがいかに“仏の願い”にかなうことであり、自分たちがいかに“正しい仏教徒”であるかを、強弁したがる。
そういうのを見ていると、彼らはよほど自信がないのだなと思う。
さて、なぜ今こんなことを話題にしているのかというと、「真宗大谷派・九条の会」なるものが設立されようとしているらしいという話を、某ブログで見かけたからだ。
冒頭に述べたように、我が宗門の僧侶・門徒が護憲運動に関わること自体に、私は何ら異を唱えない。しかし、くれぐれも「我々の会に賛同しない者は念仏者とはいえない。異安心だ」などというような、変な“旗”の振り方、恣意的なレッテル貼りだけはやめるよう、願うものである。
「いやしくも聞法者たる者、○○問題に関心を持つべきだ」的な“お念仏の私物化”は、いい加減に聞き飽きている。
2008年2月11日付追記
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Comments
共感し、リンク・トラックバックしたかったのですが、出来ませんでした。残念です。
設立については、昨年の御命日の日付の「呼びかけ」があり、
「設立集会」の案内をいただきましたので、
すでに設立しているのだと思っています。
ともあれ、ありがとうございます。
よく知りませんでしたが、会はすでに出来ているみたいですね。
個人的な偏見で言わせてもらうと、どんな会であれ、宗門の機関でもない組織の名称の頭に「真宗大谷派」と冠されているだけで、すでに何となく“胡散臭く”感じたりするタチです。
私の聞き知っている大谷派のお坊さんたちの組織って、だいたい宗派名を出していないですし。
別に、宗派名を隠せっていう意味ではなくて、カッコ付きで「大谷派僧侶有志」と添えたり、趣旨文に盛り込んだりするほうが、むしろ自然に思われるんですけど、頭に冠されると「あー、宗門の名を振りかざさないとやっていけない会なのかなぁ」などとひねくれたことを考えてしまいます。