良識としての国旗・国歌意識
卒業式の時期となった。またあちこちの学校で、国旗・国歌をめぐる騒ぎが起きているらしい。このことについて、新井知真氏が記事を公開している。
※ 新井知真「コリアン・ザ・サード」 > 「云われなき偏見からの卒業」
新井氏が述べているのは、至ってごく当たり前のことであって、尾崎豊の歌の題名をもじったと思われる見出し以外に、取り立てて目新しい要素はない。こんなことすら理解できない人々が少なからず存在するというのは、甚だ不可解としか言いようがない。
さて、私はちょっと違った観点から述べてみる。
8年前の長野オリンピックのモーグルで金メダルを取った里谷多英選手は、競技はすばらしかったが、競技のあとに一つ大きな過ちを犯した。表彰式で国旗が掲揚され国歌が演奏された時に、彼女は帽子を取らなかったのだ。他国の選手がサッと帽子を取ってみせる姿がいっしょに映ったものだから、彼女の馬鹿っぷりはいよいよ引き立てられてしまった。
彼女が帽子を取らなかったことについて、非難の声が多く上がった。それに対して、「帽子を取らなかったくらいのことをゴチャゴチャ言うなよ」と彼女を擁護する声もあるにはあったが、そういう発言は自分の無知と恥をさらけ出しているようなものだから、やめたほうがよい。
国旗が掲揚され国歌が演奏されるとき、起立して帽子を取るというのは、おおよそ世界の常識だ。愛国心がどうのこうのという話ではない。あるいは、あなたが個人的に日の丸や「君が代」が好きであろうと嫌いであろうと、関係ない。それができなければ良識を疑われる、という次元の話だ。そして、里谷選手が帽子を取らなかったというのは、単に日の丸に対する非礼にとどまらず、いっしょに掲揚された他国の国旗に対する非礼でもある。
ちょっと想像してみてほしい。もしあの時、金メダルを取ったのが韓国の選手で、里谷選手が銀メダルだったら──。中央のポールに韓国の太極旗が掲揚され、韓国の「愛国歌」が演奏されている時に、里谷選手が帽子を取らなかったら──。韓国人がどういう反応をするかは想像に難くない。
改めて問う。国旗・国歌に対して帽子を取らなくてもかまわないなんて、一体どの口が言うのか。
もちろん、里谷選手個人だけを責めるのは適切ではない。彼女がなぜ帽子を取らなかったのかといえば、理由は簡単で、彼女は帽子を取ることを教えられていなかったからなのだ。卒業式での国旗掲揚・国歌演奏の際に起立することを拒むような馬鹿教員どもが、しかるべき国際感覚の欠落した里谷選手のような人間を生み出している。
卒業式のみならず、学校(特に公立校)の式典においては、すべからく日の丸を掲揚し「君が代」を演奏しなければならない。そして、教員は率先して起立しなければならない。
繰り返すが、これは愛国心云々の話ではない。あなたの個人的な好き嫌いの話でもない。世界の常識の話だ。目上の人に対しては敬語を使うというのが、日本の常識であるのと同じように、自国の国旗・国歌に対して敬意を払うとともに他国の国旗・国歌に対しても同様の配慮をするというのは、世界の常識だ。目上であっても気に入らない奴ならば敬語を使わなくてもよいなんてことが、日本で通用しないのと同じように、気に入らない国旗・国歌に対しては敬意を払わなくてよいなんてことは、世界で通用しない。少なくとも、世界の一定以上の良識を持った人々の間では。
自国のものであろうと他国のものであろうと、国旗・国歌をないがしろにするというのは、相当の覚悟がなければできない行為だ。安っぽいセーギノミカタ根性で軽々にやっていいことではない。

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